チャン・タン・タット
入社二年。仕事が速く、処理速度のランキングは四位。すべてが順調で、手帳に書くことがもう何も残っていない。

「ハイダン社では、仕事の九割をエージェントがこなす。残りの一割を引き受けているのが、タットだった。」
ハイダン社は、AIエージェントを月極めで貸し出している。顧客は一万社を超える「ひとり社長」の会社だ。毛糸の店、歯科医院、小さな縫製工房。社長はどこもひとりきりで、帳簿をつけ、客に声をかけ、真夜中のメッセージに返信するのはエージェントの一団である。
そのプラットフォームの裏にいる生身の人間は、机二列を埋めるほどしかいない。彼らはエージェントの手に負えない案件を引き受ける。そして、ふと考えはじめる。機械が自分の仕事の九割をこなせるなら、残りの一割とはいったい何なのか。
本書は、トヨタのカイゼンをはじめ、人がともに働くことをめぐる古くからの教えを、その書き手たちが思いもしなかった世界に置き直してみる。すると多くは、かえって確かさを増していく。
入社二年。仕事が速く、処理速度のランキングは四位。すべてが順調で、手帳に書くことがもう何も残っていない。
ハイダン社の最初期からいるひとり。口数は少ないが、三度目の報告をせざるをえなかった顧客を、ひとり残らず覚えている。
働きはじめて二十年近く。人だけで回していたコールセンターの時代から、エージェントがほとんどをこなす今までを見てきた。いつも背の擦り切れた古い本を持ち歩き、会議テーブルのない場所でしか話をしたがらない。
難しい案件、ひとつの会議、川辺の午後。
物語の隣に、検証を重ねてきたマネジメント研究を置く。トヨタのカイゼンから心理的安全性まで。
自分の仕事に持ち帰るための、いくつかの問い。
エピローグ 意志あるところに。川辺の、もうひとつの午後。けれど今度、古い本を手にしているのはタットだ。
三度目の報告
ハイダン社では、仕事の九割をエージェントがこなす。残りの一割を引き受けているのが、タン・タットだった。
ハイダン社はAIエージェントの貸し出しを生業にしている。社名はベトナム語で「灯台」を意味する。顧客は、ここ数年で雨後の筍のように現れた新しいかたちの企業――社員がひとりしかいない会社だ。CEOはただひとり。その周りを、月極めで借りたエージェントの一団が固めている。経理エージェントが帳簿をつける。営業エージェントが客に声をかける。サポートエージェントが真夜中のメッセージに返信する。仕入れエージェントが毛糸を、布を、印刷用紙を発注する。そんな会社が一万社以上、ハイダン社のプラットフォームの上で昼も夜も動いている。一方、その裏側にいる生身の人間は、机二列をようやく埋めるほどしかいなかった。
チャン・タン・タットは二列目の席、顧客オペレーションチームにいた。彼の仕事は、エージェントが自力で解決できなかった案件や、エージェントの対応にCEOが納得しなかった案件を引き取ることだ。そうした案件はどれも、短く乾いたチャイムとともに画面に現れる。スプーンでグラスの縁を軽く叩いたような音だ。この二年、それが一日におよそ百回。暗がりで横になっている夜にも、頭のどこかでその音が鳴り、そして消えることがあった。
仕事は速かった。CEOとエージェントの長いやりとりも、数秒ざっと目を走らせるだけで、エージェントがどの一文で取り違えたのかがわかる。設定を直し、チケットを閉じ、次の案件を受ける。先週のランキングでは、処理速度で四位に彼の名前があった。一番ではない。けれど、彼について苦情を言った者も、これまでひとりもいなかった。
すべては順調だった。そして、それこそが問題だったのだ。ただ、そのときの彼はまだ知らなかった。
入社初日、彼は緊張のあまり、エージェントの推論を一行一行、推理小説でも読むように追ったものだ。エージェントが陥りがちな間違いのパターンを手帳三ページにびっしり書きつけ、営業エージェントがなぜ妙に堅苦しい口調で客に挨拶するのか、研修担当の女性に何度も尋ねた。いまその手帳は引き出しの中で眠り、表紙にはうっすらと埃が積もっている。もう開くこともない。書くことが、もう何もないのだ。
日本語版は第1章まで公開中。続きは英語版とベトナム語の原書で読めます。
読み終えて、チュンさんに言い返したくなったり、タットの肩をもちたくなったりしたなら、この本は役目を果たしたことになる。